若谷冬子先生を偲び、うたごえを語る会

日程  2004年6月13(日) pm1:00〜pm3:00
場所  大阪府立労働センター エルおおさか10F宴会場

関西合唱団が活動を開始した当初から、1982まで長年に渡って、あるときは行動的な組織者として、あるときは若者が最初に出会う音楽家として合唱団を支えてこられた若谷冬子先生(1910年−2003年 享年93才)が亡くなられて没後1年を機に「若谷冬子を偲び、うたごえを語る会」が行われました。

受付の様子。前団長のYさんもご子息を連れて参加。受付を手伝ってくれました。 会場は丸いテーブル。前の方はかつて団で活躍された方。後ろの方が現役の団員が座ります。 今回の「偲ぶ会」のパンフレット。皆さんから寄せられたメッセージや先生の生い立ち、先生の言葉、写真、歌集などからなる力作。団長の吉岡さん、ご苦労様でした。
総合司会は米寿のお祝い会のときもお世話になったレガ−テのTさん。 <実行委員長の挨拶>。8期生のNさんが実行委員長を引き受けて下さいました。この5月の定期演奏会にも特別団員で出られました! <若谷先生について>。元団長の宝木さんが若谷先生の生い立ちと思い出をお話しします。
<乾杯>。11期Tさんの音頭で参加者の健康を願って乾杯。後ろのタイトルバックもTさんに書いて頂きました。 歓談のひととき。お互いに近況の報告や、昔話に花が咲きます。
関西合唱団の現役のメンバーのテーブルです。
ここも関西合唱団の現役のメンバーのテーブルです。 つづいて<先生の思い出紹介1>。 九州から駆けつけてくれた方がお話よりは歌を歌いたいと、急遽吉田さんのアコーディオンで歌い出します。
そのうたいっぷりに会場から拍手が。 <うたう会1>。リーダーは守屋さん、アコーディオンは吉田さん、ピアノは門さんと豪華。 しおりの後半にある歌集を見ながら「とべよ鳩よ」「祖国の山河に」をなつかしく合唱。
曲によっては歌える人を前に並べて。この後、<ビデオ上映>。内容は「米寿のお祝いの会」と「堰口さんへのインタビュー」。 つづいて<先生の思い出紹介2>。
アコーディオンの吉田さんの演奏。ラベルの「ボレロ」。聞き惚れてしまいます。 長年、団で歌われ、声楽や研究生の指導に当たられ、現在レガーテで活躍されている柏原さん。「リラの花」の独唱。 団の最初の演奏は「桑ばたけ」。指揮は山本さん、ピアノは門さんです。
2曲目は「Swanee」。指揮は守屋さんに代わります。 皆さんのお話が長くなり、予定のうたう会2を取りやめ、閉会の挨拶を団長の吉岡さんより。「団創立60周年に向けてのOBの方々へのお願い」で無事閉会。 参加者全員で記念撮影。

生い立ちの記
【1979年 古希を迎えるにあたって】
 明治43年12月27日、大阪市北区若松町(中ノ島公会堂橋向かい裁判所のウラ通り)で兄と3人姉妹の長女として生まれた。父は北浜の三品取引所で仲買業を営み、父も母も旧式な人であったが美術・寄席芸能と趣味は豊かであった。特に母は長唄、清元、何でもこいで唄と三味線が上手であった。そんなで私は小さい時から小学5年生頃まで、お琴の稽古をさせられ、欲のない子どもの事だから"サボリ、サボリ"の稽古ではあったが絶対やめなかった。どうしたことか三味線だけは習わなかったが調子だけは何でも合わせられたそうで音感の良くなる足しにはなったようだ。又、私の住んでいた辺りは天満の天神様が氏神様で夏祭りに新調の浴衣を着せてもらい、お小遣いをたっぷりもらって"船渡御"を見物に行った事や、夏休みには毎夜堂島川のボート乗りなど楽しい思い出はつきない。又、その頃、できたての三越百貨店や裁判所のエレベーターが珍しく毎日乗りまわって守衛さんに叱られたことなども、イタズラッ子だった小さい頃の思い出である。

隣家の兄さん一童謡歌手(小学校5〜6年)
小さい頃から、私らをよく可愛がってくださった隣の兄さんが「この子は洋楽の方がむいているのではないか」と言うことで自分の参加していらした北市民館アマチュア才一ケストラに私を連れて行って歌わせた。その事がきっけで6年生の秋、大阪4師団の軍楽隊の告別演奏に中央公会堂でオケ伴奏で歌うことになった。そして一躍私は童謡歌手として朝日新聞に大きく報道され、有名になった。そんなことから次には中山晋平氏の依頼でその頃流行りだした氏の新作童謡を大阪で発表することを頼まれ、またレコードの吹き込み等もした。「浜千鳥」「早春賦」を歌ったものは文部省の推薦レコードになった。中山氏について全国への演奏旅行もすすめられたが、女学校への入試もあり私自身あまり人前で歓うことや派手な宣伝をされることを好まなかったので辞退して樟蔭女学校へ入学した。

女学校時代−牛屋龍子先生とのめぐりあい
私が樟蔭女学校を選んだのも、音楽の先生がとてもよい声だということが理由ではじめて牛屋先生の声を聞いた時には、その声量の豊かさと美しさで体がゾクゾクするほどびっくりした。私はたちまちにして先生に傾倒した。そして一生懸命勉強した。寝ても覚めてもどうすれぱあんな声が出るのかと言うことが頭の中一杯だった。しかしこの頃の私の声はまだ変声が充分ではな<、虫の鳴くような哀れなものだった。先生は声楽家に多い大変感情のきぴしい人で、時には意地悪とさえ思える程だった。私が今迄に、あっちこっちで歌ってきたことが気に入らず、さんざん皮肉を言われ、小さな乙女心は日々深刻になっていった(此の事は後に自分が教える立場になった時よい経験になった)。しかし、こんな時、私の心をなぐさめてくれたのは、隣の家に沢山収集されていたオペラや交響曲の名盤であった。私は学校から帰るとこれらのレコードをむさぼり聴いた。大きな素晴らしい音楽の世界が私の心の中に浸透していった。私は絶対音楽に生きようと決意を固めた。公会堂が近くだったので三浦環さんの帰朝演奏を最初に、国内はもちろんのこと、訪れかけた海外の有名な声楽家(シャリアピン、ダルモンテ、ガリグルチ)等、乏しいお金をはたいて聴きに行ったことは、後々、音楽作りの上に大きい力になったと思うし、もう今は亡き名演奏家の肉声に接することができた事はまたとない幸せであった。3年生になって私の芦もやっと芽を吹いた。あるレッスンの日、先生に指摘された途端、「はっ」と今迄の不透明なひびきを破って「ピン」と当たったという感じがした。私はその時の経験を今も体内に記憶している。女学校卒業の時、全大阪府連合音楽会でフィガロの結婚「スザンナのアリア」をソロした。この時はじめて牛尾先生は私の手を握りしめて喜んで下さった。

突如と訪れた不幸−もなか屋さん開業
 私はもちろん音大へ進む事を志望していたが、父が脳溢血で倒れた。少し前からうまくゆかなかった商売のことで頭を使ったせいもあったのだろう。だが半年して快復はしたものの、もう働けない人になっていた。兄は小さい頃から病弱で、家を背負って行ける人ではなかったので急に一家の暮らしの責任が私の肩にのしかかってきた。
 親戚のすすめもあり、私は妹(大手前高女3年生)と2人で「若葉もなか」と言う専門店を開業することにした。何か特徴のあるものをということで自家製にするため、生まれて初めての経験である餡たきの研究をはじめた。声楽に注いだ熱心さで・・・。1か月程で気に入った味のものが出来た。小豆は大和物の1粒より、こわれやすい外側を1個づつ名前入りの紙で包装した。1個2銭5厘、安くて体裁よく、美味しいと言うことでどんどん売れてゆきました。昼間は慣れない売り子、夜は製造で年末など不眠不休、店を閉めて寝たのが元旦の夕方といった状態でした。
 小豆屋さん、機具屋さん、種屋さんなど皆こちらから教えて下さいと飛び込んでいったのがかえって女子学生のもなか屋さんという事で、大いに力になってくださり、苦労の中にも愉快に商売をしました。ただし、この忙しい生活の中でも音楽の事だけは決して脳裏から離れず、いつかは・・・と思いつつ時をぬすんで独習しました。又、毎晩人の寝静まった頃からべートーベンやブラームスのレコードを聴いて私だけの境地に浸れることが何よりの慰めでした。この頃ちょいちょい結婚話もありました。考える余裕もない追われた生活では何も思いはなかったと言えばウソになるかもしれません。時には結婚して平凡な女の生活に入ろうかと思った日もありました。

昭和10年 父の死去
昭和15年 兄の病没
昭和14年 妹菅原家に嫁ぐ

 一心同体の様に苦労を共にし、喜びを分かち含ってきた妹との別れはさすがに悲しく、結婚式の前夜は2人で1晩中泣き明かしたものです。嫁いでも妹はよく手伝いに来てくれました。そのうち戦争で砂糖やお米が統制品となりヤミ買いに頭を悩ます毎日が続きました。私のおつき合いの相手は商売人のおっさんばかりになりました。

昭和16年末 商売をやめる
昭和17年 曽根(豊中市)に引っ越し、妹夫婦と同居する

 戦争中は菅原の工場に勤めた。通勤の途中爆撃をよけて十三の路上にある壕に1人避難していた心細さ。小型艦載機の機銃掃射を受けて電車から飛び降り木陰に身を隠した時の恐ろしさなど、今思っても「ゾッ」とする。私の工場の近くで大勢の人が爆弾で死んだ。硝煙の立ちこめる火の海を裸足で加島から曽根まで逃げ帰った日々・・・ 戦争は2度といやだ!

関西合唱団・うたごえとの出逢い
 戦後、再び前のもなか屋さんを再開しては(?)とのすすめもあったが当時のヤミ物資を扱ってのお金儲けよりは、もう少し前向きな生活をと考えていた。折しも岡原さん(団の初代団長)という青年からの依頼で「人形劇団プーク」の大阪公演に伴奏音楽のソロを引き受けることとなりました。又、関西合唱団の合唱指導もお手伝いすることになったのがきっかけです。(1948年10月)その後、須藤五郎先生、関鑑子先生などのおすすめもあって、団の常任講師となり小代先生の指導のお手伝いをする事になりました。昼間は岡原氏のオルグで何ヶ所かできたサークルを指導に行きました。その頃はまだ団にはレッスン場も事務所もなかったのでサークル指導の合間はよく百貨店の休憩所などで時を過ごしたものです。団のレッスン場も毎回変わって厚意的な労組の部屋や、朝鮮学校の廃屋などはよく使われました。野外のレッスンもしょっちゅうの事で雨の降る日は公園の橋の下、地下道の中などを使ったものです。寒いとか集中できないなどそんな賛沢は言ってはおれません。でも皆は元気でレッスンの帰りに早速闘争中の工場へ応援にかけつけたり、少し長い道のりも皆で合唱しながら帰ったものです。こんな中でいつともな<私も段々この仕事に馴染み、皆の素朴な温かい心が私をとりこにしてゆきました。最初は「変な歌だな」と思っていたうたごえの創作曲が、何とも人間味ある温かなものに思えてきました。
 1952年旧音楽センターの建設によって団は急激に発展、門戸を開いて青空音楽教室を開校したが、間もなく民青関西合唱団と合同し、民青からも独立して関西合唱団となりました。
 青年音楽教室は今の研究生制度に引き継がれ、期数も引き継がれていきました。センターは毎晩レッスン体制が組まれるようになり、しばらくの間私は団と研究生の両方をレッスンしました。1957年、団の常任指揮者として守屋さんを迎えるようになったので私は研究生を専門に担当し、併せて団の財政部長を兼任し、現在に至っています。(研究生講師は一時期抜けた時が数年あり、現在はやっていない。又常任も79年に退職した。)

−指導に入った主なサークル−
国鉄−梅田支部、吹工、八尾龍華、南近畿
電通−木津工作所、バイカル合唱団
紡績−日紡高田工場、呉羽紡績本社労組と7支部の巡回指導、近江絹糸本社、岸和田工場
その他−資生堂上新庄工場、寿屋本社・工場、特別調達局、塩野義製薬、住友海上火災
阪神センター合唱団、西宮虹の会コーラス、地労協さくらんぼ合唱団
グリーンコーラス、ママさんコーラスすみれ、ドレミなど

 特に紡績関係では当時、鐘紡の中に10大紡の中の民主的な活動家の組織「繊維懇談会」と言うのがあり、この人達の脇力を得て、1954年の日本のうたごえ祭典にはじめて繊維のうたごえ「紡績女工はもう泣かないよ」に全国から非合法で集まった女工さん達100名を組織できた時のいろいろな経験と感激は私にとって、うたごえ活動家としての自覚を高めさせてくれた思い出として忘れることはできません。古希を迎えるにあたり、物心ついて60余年の生涯を振り返ってみると私はいつも音楽によって高められ、励まされ、貧しいときも心豊かに生きてこられた事を、そしてその幸せに幾分たりともをうたごえ活動の中で皆様にも分かち得た事を本当によかったと思っています。
【生い立ちの記は25年前(1979年)に古希を迎えるにあたって先生ご自身によって書かれた文章です。】

米寿を迎えるにあたって
【1997年9月13日】
 この10数年間私はもう皆さんの活動には何のお手伝いもできませず申し訳ないと思ってましたのに、米寿のお祝いなどして頂いて恐縮しています。
 物心ついて80年、女として結婚もせず、子育てもせず、一家を築く事もできず過ごしてしまいましたが、せめて音楽を愛し歌うことの喜びを少しでも皆様と分かち得たことをうれしく、唯一の生甲斐だったと想っています。元々頭の良くない手先の不器用な人間でその上父母を見送り、病弱の兄を見送り、一番頼りに想っていた妹も10数年寝たきりの病人になりまして私の必死の介抱の甲斐なく昨年秋に亡くなりました。
 どうしようか、どうしようかと思うばかりの日々でしたが考えてみればどうしようかの一念に引きずられて今日まで長生きさせてもらったようなものでした。
 1人ぼっち淋しい暮らしになりましたが、これからは残された人生をおおらかに、世の中の事を広く見聞しながら、余生を暮らしてゆきたいと願っております。
【若谷冬子 1997年9月13日】

2003年5月24日発信
関西合唱団・大阪のうたごえ協議会
 1948年 関西合唱団の創立時より声楽講師など音楽的な指導者として、またうたごえ運動の専従者として献身的な活動をされてきた若谷先生が24日(土)の午前6時38分に入院先の高石藤井病院で亡くなられました。92才でした。
 1983年専従を離れ、自宅で看護されていた妹さんが亡くなられた後、ひとりの生活をおくってこられましたが、昨年、体調を崩され、末期ガン症状との診断を受けておられました。
【2003年5月24日発信−関西合唱団・大阪のうたごえ協議会】