機関紙「くれっせんど」より

2010年9月 1025号〜       バックナンバー

2010.9.9
No.1026
9月12日(日)大阪のうたごえ発表会
みんなの心に届くよう声に思いを乗せて発表しよう!
発表会は朝10時20分から始まります。たくさんの団体の曲を聴くよう努力しましょう。

(以下、奈良蟻の会合唱団学習資料より)
はがゆい
 アメリカ軍による無差別爆撃(空襲)、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキ・・・日本は自らがアジアを踏みにじったのと同じように、アメリカに踏みにじられて敗戦を迎えました。しかし、この経験を経て、わたしたちはかけがえのない宝を手にしました。日本国憲法です。二度と戦争をしない、そのために軍隊を放棄し、戦争する権利(そんなものがあるのかと問うべきでしょうが)を捨てたのです。
 同時に、あたらしい憲法は国民主権を明記し、それとの対比で天皇を「象徴」としました。この憲法によって、天皇のあり方は大きく変わりました。日本の歴史上、最大の転換を遂げたといっても過言ではありません。それまで、天皇が天皇であるのは、天照大神がそう決めたからでした。これは何も奈良時代の大昔のことではありません。1889年制定の大日本帝国憲法でもそうだったのです。神様がお決めになったことですから、わたしたち人間が口をはさむことはできません。つまり、神様が定めたとしたのは、天皇の地位について国民に一切議論させないためであったのです。
 それが、日本国憲法では、天皇の「地位は主権の存する国民の総意に基づく」と定められました。神様が定めたからでも、今まで続いてきたからでもなく、国民が天皇の存在を認めたから、天皇は天皇であり得るのです。裏を返せば、「国民の総意に基づ」いて、天皇の地位を廃することもできるのです。
 ところが、こうした天皇の地位の変化は、多くの国民には自覚されなかったように思われます。しかし、実は国民以上に自覚の無かったのが時の天皇その人でした。敗戦直後、彼にとっての最大の関心は、天皇の地位が残るのかどうか、自分が引き続きその地位にあり得るのかどうかでした。天皇を戦争犯罪人として軍事法廷で裁くべしとの意見は連合国、とくに日本に侵略された国々の間では根強いものがありました。日本の支配層の中でも、例えば、戦前、天皇の側近中の側近であった木戸幸一(内大臣として天皇と政府・軍部の仲介役を果たした)などは、道義上責任をとって退位するべきと提言していたのです。
 こうした、天皇位をめぐる危機的状況の中で、裕仁天皇は天皇位存続のために周到に動きます。連合国軍最高司令官マッカーサーを自ら訪ねたのはその典型的な例です。初めての会見で天皇に好印象を持ったマッカーサーは、早々に天皇制存続を決定しました。そのことは同時に、その地位に裕仁天皇がそのままとどまることをも意味しました。自らにとっての最大の危機を、彼はこうして切り抜けたのです。戦前と戦後で天皇は何も変わっていないような錯覚が国民にすり込まれたのは、同じ人物が変わることなく天皇であり続けたことも大きな原因の一つとなりました。さらに裕仁天皇は、戦前の政治決定、とくに軍事的なことに、自分はほとんど関わっていないとにおわせるような会見録を作り、GHQ方面に流しました。これが数年前に発見されて話題になった『昭和天皇独白録』です。
 天皇位の存続と自らがその地位にあり続けることが決まると、裕仁天皇の意識の中では、おそらく戦前と戦後の境はなくなったのでしょう。戦前と何ら変わらないように、マッカーサーとの会見や使者を通じて、政治にかかわる自らの考えを表明していきます。日本の安全保障のためには、沖縄は半永久的にアメリカに占領してもらうのがよいと伝えたことはよく知られています。その後、外国の元首などとの会見や晩餐会での挨拶では、「両国間に不幸な時代があったことを遺憾に思います」という類の、お詫びともとれる発言もしていますが、日本人に対して、戦争でたいへんな目に遭わせたとは一度としていわないまま逝ったのです。
 その裕仁天皇が、最後まで足を踏み入れることができなかったのが沖縄でした。本人もそのことを気に掛けており、何とか沖縄行きを果たしたかったようです。しかし、もし天皇が行くとなると、日の丸・君が代は避けて通れません。しかし、沖縄の人々にとって、日の丸・君が代は縁遠い存在でした。祖国復帰運動の時には祖国日本のシンボルとして掲げられた日の丸でしたが、復帰後、本土とのあまりの格差とそれを放置して省みない本土のあり方への反発から、日の丸・君が代は姿を消していきました。そこで天皇訪沖の露払いとばかりに、文部省(当時)は全国の公立学校で、入学式・卒業式における日の丸・君が代の実施率を調査・公表し始めたのです。全国を対象にしていましたが、標的が沖縄県であることは明らかでした。想像通り、沖縄県の数値は全国最低でした。大阪府なども圧倒的に低い方でした。数字というのは怖いもので、発表された数値が低いと、そこに込められた意味を斟酌することなく、数値を上げなければという強迫観念が関係者を襲います。かくして、数年で沖縄県を含む全国の公立学校のほとんど全てで日の丸・君が代が実施されるようになりました。そのことが教育現場にどんなひずみをもたらしたかはご存知のことと思います。
 本題にもどって、戦後、多くの日本人が二度と戦争を起こしてはならないという思いを抱いてきました。核兵器などはもってのほかです。それが「国民の総意」だったのではないでしょうか。もちろん、だからといって天皇や皇族がそうしたことをストレートに表明することは慎重でなければなりません。しかし、例えば、「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則を守ることは、我が国と世界の平和につながるぐらいのことはいってもよかったのではないでしょうか。もちろん、天皇の公式の言葉は、内閣の助言と承認によるので、核密約を結び、核兵器持ち込みを容認していた自民党内閣が、そんなことをいわせるはずもなかったでしょうが。
 正田篠枝のこの詩は、戦前の天皇崇拝を植えつけられて育った一人としての天皇や皇族へのある種の期待と、それが全く届かない願いであることへのいらだちが現れていると思います。戦後65年の今日、この歌を歌うにあたって、前述したような国民と天皇の関係の転換を理解できないためか、この詩を歌うことを恐れ多いなどという人が今なおいるとしたら、私はそのことこそ「はがゆうてはがゆうてなりません」。
(奈良蟻の会合唱団学習資料より)

2010.9.9
No.1026
創作発表会の感想
・昼からは、94期研究生の創作発表会に参加しました。グリーン会館ぎっしりの観客の前で、力いっぱい歌えて、幸せでした。他の団体の合唱もたくさん聞けて、よかったです。審査の結果は準推薦でした。【アルト1 I】

2010.9.9
No.1026
声楽発表会(9/5日)の感想(1)
●アーまたあがってしまった。あれ程練習したのになー。なぜ?あがるの???なぜポカッと空間が出来るの?方法を考えないと・・・【S2 I】

●初めての日本歌曲。苦手な部分を克服するために今までになく(!)自宅で練習をした甲斐があったようで、階段を一段のぼれたように思います♪【S2 N】

●今年も定期演奏会より緊張するこの日が終わりました。皆さんとても立派に歌ってらしていつもすごいなと思います。最後の西本先生の言葉に思わずドキリ。何を伝えたいかを考えて歌うというのは独唱も合唱も同じですね。【S2 Y】

●リハの時に声が上にいってなくてあせりました。本番は乾燥で口の中がカラカラで、でもめげず頑張りました。“おどりましょう(コプコプコバカ)”のところはみんなに呼びかけるつもりで歌えて嬉しかったです。反省もありますが・・・、又、勉強します。【S2 O】

●ひとりひとりの練習の成果を聞かせていただいてとても勉強になりました。皆さんの苦労の後がうかがえて、よい刺激になりました。【アルト1 I】

●舞台に立つと気をつけようと思っていた事が全部とんでしまって・・・。体がりっぱな楽器になるまでにはまだまだ時間がかかりそう。遠い道のりだけどあせらずあきらめずがんばろうと思いました。【アルト2 T】

●この曲のオペラは見たことはありませんが、舞台を想像しながら歌いました。主人公の嘆きを表現できたかどうか講評が今から気になります。これまでは歌ったらそれでおしまいでしたので、ちょっと成長したのかなと思います。【S2 K】

2010.9.9
No.1026
(編集後記)
暑くても秋、せみの鳴き声がきこえなくなり、赤トンボが飛びはじめましたね。(た)

2010.9.2
No.1025
新たな歌い手や聞き手を増やし、なじみやすく、うたごえを広げるコンサートに!
秋のコンサート 企画の特徴
 秋のコンサートを行う趣旨は二つあります。
 一つは、定期演奏会が主として音楽的達成の集約点・発信の場であると考えるなら、それと対比して、なじみやすくて、うたごえを広げる面を主とした敷居の低いコンサートにしたいと考えました。すなわち、新たな歌い手や聞き手を増やす取組みにしたいということです。二つには、秋の時期に演奏に出かけるなどの合唱団としての主体的な取組みが弱いことから、昨年は定演後「練習のための練習」という日々を過ごしました。やはり演奏の機会をつくりたい、という想いでコンサートを企画しました。
 コンサート企画の主な特徴を考えてみましょう。第2部のゲストは、音楽センターのアーティストとしてうたごえ運動とともに歩んできたシンガーソングライターのきたがわてつさんです。「日本国憲法前文」や「ヒロシマの有る国で」など広く親しまれた曲を数々歌ってこられました。関西合唱団第46回定期演奏会(1984年)にもゲストで出演していただきました。また、大阪城ホールと大阪ドームで開催した日本のうたごえ祭典にも出演するなど、大阪とは縁が深い方です。「HARD WAVE」は、大阪市立盲学校寄宿舎と港区にある児童福祉施設「海の子学園池島寮」の子どもたちの生きる姿に感動して彼が作った曲です。私が関わっている羽曳野市の障害者共同作業所のコンサートにも2回出演いただき、作業所にも訪問してもらうなどして、仲間たちはてっちゃんのことが大好きです。今年のNPTニューヨーク行動にも参加するなど平和への真摯な姿勢と弱者への暖かいまなざしが、誠実な歌声となって共感を呼ぶのだと思います。
 もう一つの特徴は、このコンサートは、今年の大きなテーマ《核兵器のない世界をめざして》の流れの中にあることです。長崎の高校生を中心とする高校生平和大使の活動の中から誕生した曲「一本のペンで」を大阪の高校生、大学生、青年に一緒に歌って知ってほしいと思います。長崎祭典合同曲の「木を植える」「青い地球を」も、長崎祭典に連帯しながら大阪の人たちに聞いてほしいと思います。
 さらに、最近の関西合唱団の演奏会ではなかった、会場の人と一緒に歌う場面が20分もあることが大きな魅力です。舞台と客席が一体となった歌声が広がるコンサートにしたいと思います。【団長 山本則幸】

2010.9.2
No.1025
9月5日(日)玉水記念会館 声楽発表会に向けて
−人生に「もう遅い」はない−
 声楽発表会に向けての記事で、なんというタイトルとお思いになるかもしれません。実は、私が入っているもう一つの合唱団、男声合唱団「昴」で発声をさせてもらった時に、一番若い私が、平均年齢67〜68歳の大勢の大先輩を前にして生意気にも言った言葉です。あの「宮本武蔵」で有名な作家、吉川英治の名言、「行き詰まりは展開の一歩である」あきらめたら、すべては終わる。人生に「もう遅い」はない を引用したのです。これだけ書いただけで皆さんは私が何を言いたいかお気付きでしょう。私自身がこの言葉に今年出会い、これまでもそのような信念で来たつもりだったのですが、あらためて、しんどい時、サボりたくなる時にこの言葉を思い出して、これでもかこれでもかとできるだけ自分自身を奮い立たせるようにしています。今年5月9日に、私の33年来の師である、山本禎二先生が亡くなられ、大きな目標がなくなった今、その思いをあらたにしています。【声楽発表会担当 バス1 T】

2010.9.2
No.1025
「元気もりもりうたう会」に参加して、元気もりもり歌ったね!
 今年度は、5名の研究生で、ちょっと心配された方もおられたかと思いますが・・・会場に入ると、正面には、手作りの看板や輪つなぎの飾りがあり、雰囲気を盛り上げていました。開演の7時には、会場一杯のお客さんが集まり、団員参加も多く、満員状態で始まった歌う会。少ない人数だからこその、研究生が一人ずつ自己紹介。ニックネーム紹介などちょっと緊張顔も見られましたが、研究生のみなさんの個性がきらりと光ってよかったでーす。
 シングアウトでは、曲の紹介や歌詞コールのタイミングや、「下を向かないでお客さんを見て」「マイクに近づいて」などの練習の成果が出て、どのペアもバッチリ!?お客さんたちの元気一杯の歌声が響いていました。
 手遊び・歌遊びのゲームは、子ども相手にされている経験があふれた進行で参加者みんなが、ワイワイガヤガヤと楽しみました。
 研究生の演奏や団の演奏がどうであったかは、研究生と団員がお互いに感想を出し合うといいのではと思いますが・・・覚えるのが苦手な私ですが、歌詞とにらめっこしてどうにか暗譜で歌えてよかったです。効果的な覚え方があれば教えてくださーい!
 演奏曲の練習だけでなく、チケットを広げる事・総合司会・歌唱指導・ゲーム・シングアウトなどなどみんなで協力して作り上げるなどいろんな経験ができる研究生って楽しそうだなと思ってもらったかも・・・
 最後は「実行委員長」のタスキをかけた実行委員会のあいさつで無事楽しいうたう会が終了しました。本当に本当にお疲れ様でした。【アルト1 U】

2010.9.2
No.1025
「元気もりもりうたう会」研究生の感想
●たくさんの人に来ていただき、楽しいうたう会になりました。とてもありがたかったです。司会はリラックスしてできました。合唱曲は失敗しないように必死でした。いい思い出になりました。【研究生 バス I】

●今日は皆さんのおかげで何とか成功したと思います。終わってホッとしました。でも、とても楽しかったです。始まるまでは、胃がイタカッタのですが、やっと今晩は眠れそうです。【研究生 のまっち】

●ドキドキしながらも楽しく過ごすことが出来ました。【研究生 H】

●無事に終わって良かったです。【研究生 バス S】

●なんとか終えることができほっとしています。みんなでがんばった達成感でいっぱいです。(間違って「やっちゃった」と思ったところもありましたが・・・)友人たちも来てくれてうれしかったです。【研究生 クレンボー】

2010.9.2
No.1025
関西青年交流会を開催!
関西青年交流会が8月8日から一泊二日の日程で六甲パーラーで開かれました。参加者は19人(内、女性6人)。長崎祭典に向けて「一本のペンで」「世界が一つになるまで」他の歌練習、うたう会、NPTの報告会と充実した内容で開かれました。実行委員として活躍されたバス1のNさんの報告です。

 関西青年交流会を開催するにあたって、会議は4回と少ない回数でしかも日数もあまりない状況でした。でも参加人数は19人で成功したと思います。参加者はどう感じたのか感想文を書いてもらう予定です。直接聞いている事では、楽しんでもらったみたいで、実行委員としては嬉しいです。今後関西青年で色々な行事を考え、「うたう会」などを企画していく予定です。今回、特に大変だった事は、企画して行動に移す事でした。僕は仕事柄、調理師という事でみんなが食べる夕食の献立を予算内で考え、作るという担当でした。カレーを作りましたが、美味しく出来るか自信もなく、食べ物は人それぞれ味の感じ方も誓うのでどこまでみんなのニーズに合わせられるか難しく、しかし、一応プロですからガンバリました。
 大阪からは6人の参加でした。伴奏は花井悦子さんが通いで2日来て下さり有り難かったです。【バス1 N】

2010.9.2
No.1025
(編集後記)
9月になったのにこの暑さ!♪小さい秋みーつけた♪と早く歌いたいですね。(井)